誰かに何かを伝えるとき、あなたはどんな工夫をしていますか?
私がプログラミング講師として働き始めてから、ずっと頭を離れない問いがあります。
「どうすれば、この人に本当に伝わるのだろう」という問いです。
同じ内容を説明しているのに、すんなり理解してくれる人もいれば、何度繰り返しても首をかしげてしまう人もいる。
最初のころ、私はその違いをどこか「個人の能力差」として片付けようとしていました。
それが大きな間違いだったと気づくのに、そう時間はかかりませんでした。
講義の場では、受講者一人ひとりがまったく異なるバックグラウンドを持っています。
プログラミングに初めて触れる方、以前少し勉強したことがある方、実務経験はあるけれど体系的に学んだことがない方。
それぞれが抱えている「わからなさ」の種類も、つまずくポイントも、まるで違うのです。
ある日、受講者の一人に「先生の説明は丁寧なんですが、なんだかピンとこなくて」と言われたことがありました。
その言葉はじわじわと、しかし確実に私の中に刺さりました。
丁寧に説明すれば伝わる、という思い込みを打ち砕かれた瞬間でした。
そしてその日から、私は説明の前に「この人は今、何がわからないのか」を先に考えるようになりました。
結論から言えば、教えることとは「全員に同じ説明をすること」ではありません。
一人ひとりの理解度や経験値に合わせて、言葉を選び直し、例えを変え、時には順番すら入れ替えていく営みです。
これが、私が今確信を持って言えることです。
ではなぜ、多くの人が「同じ説明で伝わるはず」と思い込んでしまうのでしょうか。
それはおそらく、自分が理解している状態から相手を見てしまうからだと思います。
わかっている側からすると、内容がシンプルに見える。
だから「これだけ丁寧に言えば伝わるだろう」という感覚になる。
でも、相手にとってはその「シンプルさ」が見えていないのです。
心理学の世界では「知識の呪い」と呼ばれるこの現象は、教える立場になると特に強く現れます。
知っているがゆえに、知らない状態がどんなものかを想像しにくくなってしまうのです。
私自身、エンジニアとして働いていたころに技術的な挫折を経験しました。
うまくいかない、でも何がわからないのかもわからない、という状態に追い込まれたことがあります。
コードは動かない、エラーメッセージの意味もわからない、周りに聞いても「そんなの基本だよ」と言われる。
そのときの孤独感は、今でも鮮明に思い出せます。
その経験があったからこそ、「わからない」という感覚がどれほど苦しいものかを、身をもって知っています。
あの挫折がなければ、今の私の講義スタイルは生まれていなかったと思っています。
逆説的ですが、うまくいかなかった時期こそが、いちばんの財産になっています。
講義の現場で意識するようにしたのは、まず「その人はどこで止まっているのか」を探ることです。
質問を投げかけながら、反応を観察する。
言葉に詰まる場所、目線が止まる瞬間、そういったものがヒントになります。
研修のある回では、参加者のほとんどが「変数」という概念でつまずいていました。
私はその場でホワイトボードを使い、箱と中身のラベルというアナロジーで説明し直しました。
すると、それまでぽかんとしていた表情がぱっと変わる瞬間があって、ああ、これが教える喜びだな、と思いました。
もしあのとき用意していたスライドをそのまま進めていたら、その気づきの瞬間は生まれなかったかもしれません。
同じ内容でも、入り口を変えるだけで理解の深さがまるで変わる。
そのことを繰り返し実感するうちに、私の中で「教え方は人によって変わっていくものだ」という考え方が根づいていきました。
これは決して特別な才能の話ではなく、相手を丁寧に観察し続けることで誰でも近づけるスキルだと思っています。
ふと考えてみると、教えることと学ぶことは、実は表裏一体なのかもしれません。
相手のつまずきを理解しようとすることで、自分自身の理解もより深くなっていく。
そういう豊かな循環が、この仕事の大きな魅力のひとつだと感じています。
とはいえ、すべての受講者に合わせた説明をすることは、簡単ではありません。
時間の制約もあれば、グループ全体のペースを保たなければならない場面もある。
完璧にできているとは言えないし、今も毎回試行錯誤しています。
それでも、「伝えようとする姿勢を持ち続けること」が、少しずつ講義の質を変えていくのだと信じています。
うまくいかなかった日の夜には、どこで受講者の表情が曇ったかを振り返る習慣をつけるようにしました。
その積み重ねが、次の講義へとつながっていきます。
あなたの周りにも、同じ説明をしているのにうまく伝わらないと感じた経験はありませんか。
そういうとき、もしかすると必要なのは「もっとわかりやすい言葉」ではなく、「その人に合った入り口を探すこと」なのかもしれません。
教えるということは、相手の地図を一緒に書き直していく作業です。
伝わった瞬間の表情を見るたびに、この仕事を選んでよかったと心から感じます。
あなたが誰かに何かを伝えるとき、その人だけの入り口を探してみてください。
きっと、伝わり方がこれまでとは変わってくるはずです。